底辺からの視線

中年親父目線で気づいたことを雑記的に書き殴るブログ

東京オリンピック2020で感じる一体感の少なさ

なんだかんだと言っても始まってしまえば、スポーツ好きとしてオリンピックを楽しもうと努力をしている自分がいて、コロナの感染者数が増えようが、危険水準になろうが、気にならなくなり、どちらかと言えば気が抜けているというか、コロナなんて関係なく、なんなら去年に予定通りやれば良かったのにと思うのです。

一方ではコロナの犠牲で亡くなった方、大変な思いをしている方がいるのも事実で、僕の身の回りにも直接的、間接的にコロナ渦に巻き込まれ、コロナを恨んでも恨みきれない人の気持ちも分かり複雑な気持ちでオリンピックを観戦しています。

今回のオリンピックは盛り上がって良いのか判断がつかず、気を使い観戦をしていて、冷静に周りを観察し、大嫌いな人間と同じように空気を読み、周りの目も気にしながら話をしなければならず人生で初の試みにチャレンジをしています。コロナという稀有な事態により、空気読まない教、唯我独尊、自分大好き人間として生きてきた僕でも他人の死を笑って乗り越えられる程、肝が座っておらず、気を使っているのです。

そして冷静沈着に冷めた目で観察をすると今回のオリンピックは日本人特有の同調圧力もなく多様性がそこにあり、村文化というか狭い日本の伝統ではなく、グローバルで自由な雰囲気がそこにあったのです。

良くも悪くも好きか嫌いかは別にして、楽しむ人だけ楽しめば良い。無理して盛り上がる必要もなく、ただただ個人的な身内で盛り上がれば良くて、周りの同調圧力というか、盛り上がらなくてはいけないという雰囲気がなく一体感が生まれていません。みんなで一緒に何かをしなくても良い、自己判断でやりたいことをして良い雰囲気が取り巻いていて寂しいような、嬉しいような、でもやっぱり寂しくて、みんなで盛り上がればもっと楽しいのにと思ってしまうのです。もう、国民が何かに向かって一体感が生まれることはないんだろうなというのが僕の感想です。そんなことはなく、コロナ渦が落ち着いたら、またスクラムを組んで協力をし、頑張る人を応援することがあるのかもしれませんが、なんとなく多様性という魔法の言葉で昔ながらの良き日本の任侠というか、正義は潰されてしまう気がしてならないのです。

それが日本としての進化なのか、退化なのか、答えはずっと先の話になりますが、楽しむ集団の規模が小さくなり、ニッチな楽しみ方が増え、意見や価値観に多様性が生まれ、新しい世の中になるのです。

未だに男女差別、子供の虐待、自分より劣る人間に高圧的な態度を取るクソみたいな人間が多い日本で多様性が認められるか、広がった格差のもと、金の集まるところと搾取され続け生きることもままならない人間がいるのも自己責任という言葉で言いくるめられているように、多様性という言葉が一人歩きをし、何でも多様性と言えば許されるアホな世の中になり、生きているのが息苦しくなるのではないかという懸念を抱くのです。

なんだかんだと言いながら、日本人の島国根性というか村社会というか強い絆で繋がる世界が好きで他人との関わりに面倒臭さを感じながらも気に入っていて、1人遊びが苦手な僕がいるのです。このままバラバラになるような気になり無駄な心配をしてしまいます。