底辺からの視線

中年親父目線で気づいたことを雑記的に書き殴るブログ

費用対効果という言葉を覚えたての人間に『対効果』を意識させることはムリゲーである

我が社のジュニア(創業者の息子、現副社長)殿が最近「費用対効果」という言葉を覚えたようで、ことあるごとに「費用対効果が〜」とサルのように繰り返しておられる。四〇代半ばになっても成長を続けている姿に感動すら覚えてしまう。

そして、困ったことに覚えたての「費用対効果」は何かが欠けているのだ。本当に惜しい。せっかく、武器を手に入れたのに、レベルが追いつかず装備しても使いこなせないのである。そして、新しいおもちゃを手に入れた子供が見せびらかすように知ったかぶりをして「費用対効果」という言葉を使っている姿がイタい。視界に入るだけで眼がくらむ。

そもそも、費用対効果とかコストパフォーマンスは、投入した費用に対して、得られる価値やメリットが大きいか小さいかという対比の度合いがある。

そんな事実を知らない。せっかく新しい言葉を覚えたのに、費用対効果の「費用」の部分しか意識できないのは実にもったいない。『対効果』の部分がなければ、費用の比較しかできず、安い方が正義になってしまう。「安かろう、悪かろう」や「安物買いの銭失い」を地で行くのだ。

現に、すぐに壊れ使えなくなる道具や使えないツールなどでスムーズに流れていた社内業務に”澱み”というスパイスを加えている。周りはひどく迷惑を被っている。

そもそも、このジュニアは我が息子(中学一年生)と同等か、それ以下しか世間というものを知らない。

人が動けば費用が発生するとか、値段が高いものはそれなりにメリット、価値があるという社会人として、根本的な知識をお持ちになっておられないのだ。

例えば、一〇〇〇円のランチと六〇〇円のランチがあったら、味や店の雰囲気は関係ない。迷うことなく六〇〇円の不味い方を選ぶ。そして、ニコニコとしながら「この店は費用対効果が高いんですよ」とほざくのだ。

いつ炊いたか分からない黄色く変色したご飯に、古い油の香りがする唐揚げ定食に六〇〇円を払うぐらいなら、一〇〇〇円で江戸前の天丼と手打ちそばがセットで食べられる方が、コスパが良いということは間違いがないと思う。

少なくとも僕は六〇〇円を出して不味いものを食べるなら、一〇〇〇円支払っても美味しい天丼とそばを食べたい。

これが社内であれば許せるのだが、お客様、協力会社に対しても同じことをしれっと言いやがるから問題なのである。

「送料は糸目をつけないから、万が一がないように送って欲しい」というお客様の要望も「それは費用対効果が悪いから」と無保険の宅配便で送り、案の定、お客様の手に渡ったときには壊れてしまっている。融通を利かせてくれる協力業者と新参の業者を費用だけで比較し、これまで世話になっている協力業者を切り、安い新参業者を使う。そして、短納期の仕事などの融通が利かず、業務をストップさせてしまう。そんなことが日常茶飯事なのだ。費用を抑えて、業務改善をしたと鼻高々になっているジュニアを横目にお客様や協力業者に頭を下げている人間の気持ちになって欲しい。

もちろん、費用が安く済む方がいいという考えは間違っていない。だが、そこには同じ価値、同じメリットがあるという条件がつく。

「どっちも美味しいから安い方がコスパがいい」とか「コンビニの方が一〇円高いけど、キンキンに冷えているから」と買い物をする息子の方が費用対効果を理解していると思うのは親バカなのだろうか。と本気で思ってしまう。

もし、ジュニアが経営者になったときのことを考えると今から胃が痛む。さらに困ったことに、社長も最近はジュニアのことを溺愛し、注意するどころか褒めるのである。

「コストを下げるなんて凄い」など目先の費用の圧縮を褒める。裏で多くの従業員が余計な仕事に振り回されているという現実を見ようとしない。

ガラガラと僕の常識が崩壊していく音が寂しく響くのだ。