底辺からの視線

中年親父目線で気づいたことを雑記的に書き殴るブログ

社会人としてやっていくことに不安を覚え、どうしようもなくなった話

社会人になって周りの人との考え方の違いに気づくというか、学生時代までの考え方、価値観と社会人として求められることが違いすぎて、愕然として「俺は社会人としてやっていけるのか?」という不安に襲われた経験はないでしょうか?

学生時代と同じ行動をしていると「いつまで学生気分でいるんだ?」とか「早く大人になれ!」なんて、クソみたいな価値観を押しつけられ、テンションを下げ、物分かりの良いフリをして理不尽なことも受け入れ、段々と大人になっていくのが当たり前・・・。

周りの人間がどんどんと社会人として会社に馴染んでいく中、どうすれば良いか分からずに悶々と悩んでしまうことがありますよね。

僕も新卒で就職をしたとき、今から20年以上前に凄く悩みました。

僕はガキのままで生きることを選びました。多くの人が個性を潰し、同じようなサラリーマンになっている時代だからこそ、個性丸出しで生きることに価値があるのではないでしょうか。

会社に馴染めなくても全然問題ありません。叩かれても叩かれても自分を曲げちゃダメなんです。現に40歳すぎても、ガキの頃と何も変わらず生きている僕がいっているんだから間違いない。

そのためには、類稀なる努力が必要で、自分を守るためには必要なことなのではないでしょうか。

社会人としてやっていけるか

結論から言うと、自分の性格、価値観を変え、周りの人間と同じように考え、行動をすることが正義なんてことはありません。

「社会人らしく」なんていう押しつけられる価値観なんて必要なくて「自分らしく」生活をしていれば良いのです。ぶっちゃけた話、就職した会社の価値観なんて、他の会社では通用しない価値観で、そんな価値観に染まると潰しが効かない人間になってしまいます。

中年の転職が失敗する原因は、前の会社の価値観を引きずっているからで、新しい会社に馴染めず「こんなハズじゃなかった・・・」と思ってしまう。どこでも自分色を出せる人間しか生き残れません。

「いつまで学生気分でいるんだ?」なんて言われるのは新卒の時だけであって、そのスタイルを貫けば、2年目になったら何も言われなくなります。1年間貫けば、それがあなたのキャラになり、誰も文句を言わなくなります。

実際に僕は社会人としての自覚が生まれたのは、結婚してからで、それまでずっと学生気分で生活をしていました。

理不尽に耐える方法

見た目が派手だとか、責任感がないとか、仕事ができないとか、色々なことで責められ、嫌な気分になって、社会人としてやっていけるのかなんて考えて自分を曲げる必要なんてなくて、理不尽なことでも平然と受け止めて、淡々と仕事をこなすことが大切です。

仕事なんて理不尽なことが当たり前で、そこに道徳的な正義なんて必要なくて、理不尽なことを言われても「こいつ、可哀想な奴だな。俺が被ってやるよ」くらいの気概で仕事をすれば腹も立たなくなります。

ある意味、神目線で「憐れみの目」で見てあげてください。理不尽なことを言ってくる人は、可哀そうな人間で、あなたが救いの手を差し伸べてあげれば良いのです。

なんて、今だからカッコ良いことを言っていますが、マジで新人の頃は悩んでいました。周りの同期と同じことをしていても怒られるし、先輩女子社員と話しているだけで舌打ちをしてくるクソみたいな先輩もいました。

社会人としてやっていくことに不安を覚える

僕が社会人として生きていける自信を失ったのは、入社して新卒で入社をした会社に慣れるに連れ、同期たちが「早く会社の役に立つ人間になりたい」とか「仕事を覚えて認められたい」と言い出したのを聞いて違和感しかありませんでした。

数ヶ月前までは、学生として生活をしていたのに「はい、これからは社会人として責任を持って生きなさい」なんて言われて「はい。分かりました」なんて言える奴らが不思議でならず、そもそもお前らは社会人として何もどうするのか、答えを見つけたのか? と焦りがありました。

そして「会社のために」頑張る言い切れる同期たちとは徐々に距離を取るようになりました。僕は会社から「陽気でバカな男」として求められることを認識していたし、そんなポジションが美味しいとさえ思っていました。

僕は「会社の役に立たなくても良いから、お荷物にならないこと」が求めれていて、そんなキャラを確立した自分が誇らしく思っていました。

ですが、困ったことに「陽気でバカな男」は思ったより需要が高く、同期の飲み会には必ず誘われてしまいます。本人は距離を置きたいと思っていても、参加を求めてくる人間が多かったのです。

主催する「出世したい」という人間が求めるというよりは、そんな飲み会に誘われ「嫌々でも参加をしなければいけない」と考える人間から必要とされてしまいました。

理由は簡単で「あんな人間でも会社にいても問題ないんだ」と再確認でき、他人と比べることで自己否定感を小さくすることができるから。仕事をバリバリして会社から評価をされている人間の中にいると、どうしても「結果が出せない自分は会社にいても良いのか」と不安になってしまいます。ですが「結果を出していない人間が楽しそうに生きている」のを見るとホッとするのが人間なのです。

そんな同期の自慢話を聞く飲み会は内心、嫌でしょうがなかったのですが「陽気なバカ」を演じ続けるためには必要な努力でした。

仕事に命をかける気にはならない

「会社のために」という崇高な意識の人間からすると僕のように、仕事もしないで、ヘラヘラと女子社員と仲良くしている人間が許せないというのは至極真っ当な考えで正義からすると外れていて、どちらかと言うと悪者だというのは認識していました。

はっきり言って『確信犯』でした。

僕は出世レースを早々に離脱して、クビにならないように生きることを選択したのです。

意識が高い人間からすると目障りで鼻につく人間。そして、仕事に命をかける戦士たちはその価値観を僕に押し付けてきました。

絶対に折れなかったけど・・・。

サラリーマンとして会社のために一生懸命貢献したいという気持ちは必要で、会社員として給料を貰うためには必要なマインドだと思います。

ですが、仕事に命をかけることができる人間とそうじゃない人間がいるのが現実です。

僕は自分らしく生きることを選択した

僕は自分らしく生きることを選択しました。間違っていたか、正しかったのかは未だに分かりません。もしかしたら、会社のために頑張って仕事をしていたら、もっと良い人生だったかもしれません。

自分らしく生きてきて多くの苦労もしたし、これからもすると思います。自分の感情を押し殺し、会社のために働いていた方がラクに稼げると思います。僕が意地を張って自分らしく生きてきた苦労は必要なかったかもしれない。

だけど、後悔はしていません。

会社に馴染めなくても、社会に馴染めなくても自分の生活圏内、周りの人間だけに認めてもらい生活ができれば問題ないのです。誰からも好かれたいとか、誰からも嫌われたくないなんて思っても、そんな人生を送ることは不可能なので、自分らしい行動をして認めてくれる仲間を見つけることが大切なのではないでしょうか。

承認欲求があるのは認める。だけど、認めてもらいたい相手は誰だ? - 底辺からの視線