底辺からの視線

中年親父目線で気づいたことを雑記的に書き殴るブログ

ロックに生きるにはツラいのは、全てが揃っている時代だからなんだ

昭和50年生まれの僕は、1990年代、バブルの残り香で、日本がまだまだ元気だったころ、多感な青春時代を過ごしました。昔は良かったなんて年寄りみたいなことは言うつもりはないんだけど、あの当時の日本人は狂っていて、ちょっと上の年代、憧れの先輩たちは自由のために好き勝手暴れ回り、人生を謳歌していて、今では考えられないくらいのパワーとパッションを持って生きていたような気がします。

学校では持て余すパワーとやり場のない怒り、悶々とした鬱憤を晴らすために喧嘩、エロそしてロック、単純でピュアな若者の気持ちを発散して周りの多くの人に迷惑をかけ、それも青春だと大人たちも寛容で本当に世の中全体が狂っていました。

そんな90年代に中学、高校、予備校を挟んで大学と楽しい青春時代を過ごしたのですが、当時を振り返ると手に入らないモノ、叶えられそうにもない夢みたいな大きな目標というか、生きる目的みたいな漠然としていたけど、そんなものがあって手に入れられない、叶えられないと知り、悶々とし、やり場のない怒りで、他人に噛み付き、衝突し、潰され、それでも強く生きなければと一生懸命に生きていたのです。

40歳を超え、もうすぐ50歳に手が届く親父だけど、まだまだ現役でバリバリカッコつけて生きたい訳で、息子たちのカッコいい父ちゃんでいたい訳で、女子にチヤホヤされたい訳なんです。そう、あの頃憧れたロック、僕の人生の指針であるロックに生きたい。

僕にとってロックはただの音楽ではなくて、憧れであり、人生の羅針盤、マニュアル、男としての生き様なんです。

ただ、令和の現代はロックに生きるには全てが揃い過ぎている。どうしても手に入れたいと思えるモノ、やりたいことがなくなってしまった。それは僕が歳を重ねたからではなくて、日本が裕福になり頑張る必要がなくなったんだと思う訳です。みんなにとって生きやすい、暮らしやすい世の中になると僕みたいな人間は生きる推進力を失い、過去にすがるように生きるしかなくなるのです。

欲しいけど手に入れられないモノ、やりたいけどやれないことが僕の生きるためのエネルギーであって、それが手に入れられない悶々とした思いを代弁してくれるのがロック。なのに全てが揃い過ぎていて、便利になり過ぎていて、必死に生きることが必要なくなって、どちらかと言うと必死に生きることがカッコ悪い世の中になってしまって、1990年代のように狂った時代に憧れていた人間からするとぬるま湯過ぎて人生に張り合いがないのです。

あの頃は、もっと良い暮らしがしたいとか、誰よりも稼いでやる、誰にも負けたくないと意地とメンツ、見栄で生きなければいけなかったのです。他人に自慢できる現実がなかったから、夢を語るしかなく、口に出した夢を実現するために必死に生きていた。そんな先輩たちに囲まれ、憧れ背中を追いかけていたのです。

現代は、贅沢をしなければ、生活に困らず生きれる世の中になり、欲望にまみれて生きているとバカだの、変わり者だの言われ、必死に頑張るのがカッコ悪いと思われている時代です。

そんな世の中でバカにされようとも、自分を曲げず、自分の信じたものを守り、誰にも媚を売らず、生きていきたい。