底辺からの視線

中年親父目線で気づいたことを雑記的に書き殴るブログ

コロナ渦で気づいた年代ごとの考え方の違い

東京も緊急事態宣言が解除され、オリンピックの開催に向けて一気に加速をしていますよね。人生で一度あるかどうかの地元開催のオリンピックだというのになかなか盛り上がれない自分がいます。毎大会、サッカーだったり、ラグビーのセブンズだったり、色々なスポーツを観戦して楽しんでいるのですが、東京オリンピックにはワクワクしない。どちらかというとドキドキしてしまう。

緊急事態宣言が解除され、東京にも人が戻ってきました。というか、去年の緊急事態宣言中は、本当に人がいなかったけど、今年の緊急事態宣言は、そこまで人が減っている感じは受けなかったのですが、緊急事態宣言が解除された、ここ1週間はマジで人が多い。もちろん、コロナ前の人数よりは少ないですが、去年から続くコロナ渦の中では最多の印象を受けます。

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何が「緊急事態」なのか、緊急事態だから何をしないといけないのか、あやふや過ぎてついていけないというのが正直な感想です。これは日本の暗黙のルールというか、はっきりさせなくても良い、みんな空気を読んでくれ、忖度しろよという雰囲気で具体的なことは避け、誰も責任を取らず、うやむやに出来れば良いという考えだと思うのです。

これは政府だけじゃなく、日本全体に蔓延していて、会社組織でもそうだし、近所付き合い、ボランティアでも「察しろ」という文化が根本にあって、良くも悪くも責任者が責任を取らなくて良いように、誰でも察するような教育を受けてきたから上手く行っていただけであって、現代のように「自分で考えて行動しなさい」「自由にして良いんだよ」なんて教育を受けてきた人間が増えてくると破綻する文化なのです。

昭和の頃の教育は「先生、目上の人は絶対だ」という教育で指示命令系統がしっかりとして、さらに上の人間は下の人間の面倒を見る責任を与えられていたのです。例えば運動部で言えば上級生が絶対で下級生は上級生のいうことは間違っていようが、絶対服従でした。その変わり、監督から下級生が直接怒られることはなく、必ず上級生が怒られていたのです。指示系統は監督⇨上級生⇨下級生としっかりと確立されていました。なので、下級生がやんちゃをすると上級生が責任を取ることが当たり前で、そんな教育を受けてきた人間ばかりであれば、空気を読んだ行動をする日本の良き伝統は機能します。

ただ、その日本の古き良き伝統の空気を読んでもらうシステムは「自由に生きて良いんだよ」とか「自己責任」「自分で考えて行動する」という自由の国の真似事をした教育を受けた人間が増えてくると破綻をしてしまうシステムなのです。自分で考えた結果、外出をしても問題ないと判断した訳で、空気を読んで自宅待機をしている必要はないと考えているのです。だから海外では、外出禁止令で罰金や処罰を与えて、外出を控えるようにしているのですが、日本は厳しい処罰を行わなくても、みんな空気を読んで外出なんてしないよね? なんて判断をしています。なぜかというと現在の日本の政治を行なっている人間は古い人間で、しっかりと「目上の人は絶対だ」と教育を受けてきたので、普通に考えたら忖度するよね? なんて甘い考えがあるのです。

自由、自己責任の社会になっているのに、昭和の古い「支配政治」の時代のままの考えで、みんなが忖度をしてくれる、空気を読んでくれるなんて考えている人と自己責任で自由に生きるという人で意思の疎通なんて出来るわけもなく、お互いに何を考えているか分らず、文句を言い合っているのです。自由、自己責任の社会で「国民は、空気を読んで外出をしないだろう」なんて安直に考え、国民にお願いベースで「外出しないで」なんて時代錯誤甚だしい。それに気づかない人たちが日本の政治を牛耳っているなんて、悲しくなってしまいます。

中途半端に自由を与え、責任を有耶無耶にしようとしているから大変なことになっているのです。自由を与えるのであれば、個人に責任を取らせるように厳しい処罰を用意をするのが世界スタンダードなのです。全てが中途半端で後手後手に回るのは日本の政治だけではなく、大きく膨れ上がった古い企業組織も一緒です。

自由を与えるのであれば、責任の所在をはっきりとし、責任を取る人間をしっかりと決めることが大切だと思います。現代は、個人を尊重する風潮があるので、しっかりと個人に責任を取らせることが必要です。みんなが空気を読んで忖度をしてくれるなんてことはありません。他の人に迷惑をかけないように個人に責任を取らせるのであれば、罰則つきの宣言が必要なのではないでしょうか。

日本人は真面目で誠実だなんて昭和的な考え方では上手くコントロールができないのです。中途半端でも自由を与えるのであれば、責任も取らせるのが常識なのです。